不幸感の正体

遠江です。

新しい挑戦をしようとするとき、幸福感がないから行動できない、という悩みを持つ方がいらっしゃいます。

幸福感のない自分が、人を幸福にすることなどできない、と思って行動できないわけですね。

逆に言えば「不幸感をどう解消するか」という問題です。

そこできょうはこの「不幸感」というものを私なりに分析して、対策を打ちたいと思います。


◆三種類の不幸感覚

私は不幸感覚から脱するには、まず現状を正しく見極める必要があると思っています。

つまり、「不幸感覚」といっても異なった幾つかの種類があるので、そのどれに自分は当たっているのかを知らないと、正しい対策の打ちようがないということです。

私は「不幸感」というのは大きく3つに分類されると思っています。

すなわち、

1、問題が勃発し、どうしていいかわからない状態

2、なんとなく気分が優れず喜びが湧かない状態

3、他人から生き念を受けて、ダメージがある状態

です。

で、きょうの議論から「1」は省きたいと思います。

なぜなら、明確な問題が発生した場合は、緊急対応が必要であり、「不幸感覚で行動できない」という問題とは違うからです。

むしろ、今回いちばん問題にしたいのは、「2」の「なんとなくの不幸感覚」というものです。

この「なんとなくの不幸感」が最も行動を阻害していると思うからです。


◆生き念対策

で、まず考えていただきたいのは、実は「2」のように見えて「3」の問題ではないかということです。

つまり、「なんとなく心が重い」と思って不幸感を引きずっていたら、実際は誰かから生き念を受けていただけでないか、ということです。

それがすべてであるとは思いませんが、一定の割合で「ある」と思うのです。

「生き念」というのは、映画『陰陽師』などで表現されたような「相手の怒りや恨みがこちらに作用してくること」であり、こう書くとオドロオドロしいですが、日常で普通にあることです。

わかりやすく言えば、みんなに恨まれた芸能人が病気がちになるようなことですね。

つまり人の強い思いは「念」となって、よきにつけ悪しきにつけなんらかの影響を及ぼします。

で、この生き念対応には「悩むのではなく手を打つことが大事」です。

誰かの念が抗議しにきたり、攻撃しにきているわけですから、これを「不幸だ」と悩むのはナンセンスで、智慧でもって対策を打つべきなのです。

霊言ができるような霊能力者なら、どんな生き念が来ているのか特定できるので、具体的な手が打てますが、一般人であるわれわれなら「ある種の類推」をするしかないわけです。

「何か気持ちが重いな」→「誰かから生き念を受けていないだろうか」→「もしそうなら、何らかの手を打とう」、というかたちで対処するべき、ということです。

その「手を打つ」ことが、実際に相手と会って話をすることもあれば、メールをすることもあれば、「何か自分に原因があるのではないか」と反省することもあれば、祈り(祈願)をすることもあるでしょう。

大事なのは、「必ず何らかの手を打つ」ことです。

この「手を打つ」ことを怠って慢性・念受け状態にしていないかチェックしてみていただきたいのです。

そして、「ひょっとしたら」と思い当たることがあったら、いたずらに怖がったりせず、いろいろと手を打ってみるのです。

「手を打つ」とはすなわち「行動する」のと同義です。

つまり、問題に対して智慧を持って行動しておれば、試行錯誤はあってもやがては解決するのです。

手を打つ人はだいたいうまくいきます。

いちばんよくないのは「問題を放置する」ことです。

不幸感覚の原因が「生き念」である場合は、悩んでないで手を打ってください。


◆二種類の生き念

この「生き念」をさらに分類すると、二種類に分かれるのではないかと私は考えています。

すなわち、

1、嫉妬の生き念

2、不満の生き念

です。

「嫉妬の生き念」というのは、自分が何らかの成功軌道に入っているとき、よく受けるものです。

大相撲の優勝力士も嫉妬されるでしょうし、人気女優も嫉妬を受けるでしょう。

で、これは成功するための代償のようなものと割り切る必要があると思います。

もちろん、下手に嫉妬されないように、賢く処世する必要はありますが、完全にゼロにするのは難しいでしょう。

だから、これをあまり「不幸感覚」だと悩みすぎる必要はないと思います。

また、これは成功して初めて受けるものですから、成功していないときにはそれほど気にしなくていいでしょう。

むしろ問題なのは「不満の生き念」だと思います。

これは、自分と縁のある人から、何らかの抗議を受けている状態ですから、原因に気がついて改めることが大切です。

たとえば、伴侶の誕生日を忘れて何のお祝いもしていなかった場合、慎み深い伴侶だと、何も言わずにただ不満の念を発射していることもありうるでしょう。

そのときは、「なんか心が重いな」→「誰かが自分に不満を持っているのかな」→「そうだ、妻への誕生日プレゼントを忘れていた!」→「花を買って帰り一件落着」ということがありうるのです。

でも、こういう気づきをせずに、放ったらかしにしていると、伴侶の不満は根が深くなり、やがて大爆発を起こすかもしれません。

これは自分の不幸感覚ばかり見つめても気づけないもので、周りを見る必要があります。

不幸感覚に沈んでいる人で、実際は「人の気持ちに鈍感なだけ」という場合がありますから注意してください。

というか、自分の不幸感ばかり悩んでいる時というのは、間違いなく周囲への気遣いがなくなっていますので、ほんとうに要注意です。

逆に言えば、少し周りを心づかいすれば、不幸感など自然に解消されてしまうことも多いのです。


◆病に伏せても愛は与えられる

あと残りは、人に愛を与えていないがゆえに幸福感が得られないケースです。

で、愛されようとして愛されず、不幸感を引きずるパターンです。

つまり愛欠乏症ですね。

でもこれは考え方を間違っています。

幸福感というのは、人に愛を与えるとき得られるもので、人から愛をもらおうとしても得られないからです。

で、こういう人に申し上げたいと思います。

「幸福感がないから智慧をアウトプットできない、などと言っていてはいけません」

「智慧をアウトプットするから、幸福感が出てくるものなのです」と。

たとえ入院していても、ベッドの上から看護婦さんに愛を与えることはできるのです。

たとえ風邪を引いていても、友人に愛を与えることは可能です。

「〜でないから、〜できない」という考え方をやめるべきです。

「〜でなくても、〜することはできる」という考え方をしてください。

だから、いま自分に幸福感がないから、人の「困った」を救えない、という考え方は間違いです。

怪我してびっこを引きながらも、捨て犬を我が子のように世話してあげている母猫を見たことがあります。

子猫たちに混じって、子犬にもおっぱいを吸わせてあげている母猫の表情は幸福そうでした。


◆まとめ

きょうは「行動」を阻害する「不幸感」に光を当ててみました。

きょうの話をシンプルにまとめると、

「行動を阻害する不幸感」は、「生き念」と「与える愛不足」が主因と思われる。

「不満の生き念」は、人の気持ちに気づいてわが振りを直そう。

「与える愛不足」は、自分の調子が万全でなくとも、できるところから与えていこう。

この二つをがんばれば、きっと行動できる、ということです。

つまり、「不幸感」の正体を見破れば、「行動できて幸福になれる」ということでした。

それではまた。

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