黙殺という陰湿ないじめへ正義の鉄槌を
遠江(とおのえ)です。
「黙殺」とは、相手を無視して生命力を奪おうとする企図です。
これがなぜ「陰湿ないじめ」になるのかというと、黙殺というのはやられた本人以外にはきわめてわかりにくい”いじめ”だからです。
とくに集団でいるとき、ターゲットにした一人だけ無視して、あとは仲良くやると、孤立させられた者の受ける精神的打撃はかなり大きなものになります。
しかも、黙殺はなにか表立って攻撃することではないので、跡を残さずターゲット一人を傷つけることが可能になるのです。
さらに、周りの者も一部は同調し、残りはとばっちりを受けるのが恐ろしくて沈黙しがちなので、大勢の共犯者対一人の構図となって、大きなダメージを与えることになりかねません。
しかし、このような陰湿な黙殺行為に対しては、徹底抗戦するのが正義というものです。
黙って許しているうちに、その暗黒カルチャーが広がっていくと、嫉妬の合理化やいじめの隠蔽につながり、ユートピアづくりを著しく阻害するからです。
◆黙殺の三者モデル
たとえばA、B、Cという三者で話しているとき、AがCを黙殺する意図を持って、Bとばかり話したとします。
Cはやられている当事者ですから当然黙殺されていることに気づきます。
そのときCの気が弱いと、何かAの機嫌を損ねたのが原因で黙殺されたのだろうと思い、自分を闊達に出せなくなります。
そしてBがAのCに対する黙殺に気づいた場合、ここで取るべき道は二つに別れます。
一つは、黙殺をよしとせず、Aに「そういうことはやめよう」と意思表示することです。
この場合、Bは正義を行ったことになります。
二つ目は、Aの黙殺をとがめると、今度はBである自分に矛先が向いてくるのを恐れて、気が付かないふりをしてCへの黙殺を許す場合です。
この行為を「とばっちり回避」と名付けておきます。
この場合、正義は行なわれず、Bは消極的にでもAと共犯関係に入ることを意味します。
これは単純な三者モデルですが、これが四人以上に増えてくると、大人数でつるんでC一人をいじめる構図になるのです。
しかも、いじめの手口は「黙殺」ですから、第三者が外からそれを見ても、なんら攻撃的なことは行なわれていないように見え、ここに完全犯罪が成立します。
「完全犯罪」とは言い過ぎのように思われるかもしれませんが、自殺が起きるのはほとんどこの二番目のパターンで組織的ないじめが行なわれるケースです。
◆正義の協力の必要性
上の場合、黙殺が陰湿化・深刻化する分水嶺は、Bが「とばっちり共犯」の道を選択したときです。
Bが目の前で行なわれている「黙殺」を許さないか、「とばっちり回避」をして「黙殺」を許すかが分かれ目となるのです。
しかし正義の観点から、「黙殺」は決して許してはなりません。
もちろんやられた当事者であるC自身が強くなって、「黙殺」に抗議することが第一の正義です。
さらに、それを目撃したBもこころを強くして、「黙殺」を支持しないことが第二の正義です。
この第一の正義と第二の正義が協力し合ったとき、「黙殺」というフォースの暗黒面は姿を消していくでしょう。
「フォースの暗黒面」というのは、邪悪なパワーのことを指し、映画『スターウォーズ』で世界的になった用語です。
しかし、第一の正義が抵抗しても、第二の正義がおこなわれず「とばっちり回避」で黙殺の共犯側に回ったとき、多勢に無勢でフォースの暗黒面が勝利を収めるのを許すことになるでしょう。
だから、第一の正義と第二の正義が協力しあうことが、唯一正義を地上に打ち立てる道をなるのだと、私は考えます。
よろしいでしょうか。
目の前の黙殺を許したら、正義の道に反することをわれわれは知らなければなりません。
◆マスコミ権力による黙殺を許すな
今の事例は小さな日常モデルですが、実際はもっと大きな社会レベルでこういうことはいくらでも横行しています。
たとえばマスコミが政府から軽減税率を受けることをバーターにして、政権にとって都合の悪いものを一斉に「黙殺」すると、された側は社会的に抹殺される危険もあります。
全体主義のなかでは、権力者に反対する者は、原始的には「弾圧」というかたちをとり、よりソフィスティケートされると「黙殺」というかたちをとります。
正論がわかりにくく隠蔽されながら黙殺され、口をつぐまされるようなことになるのです。
その結果、社会から正義が消え、人々の心に光が射さなくなり、生き生きとした活力が衰え、やがて不況や戦争や天変地異の津波に襲われて文明そのものがなくなることさえあるのです。
その悪しきこと、「黙殺」によって誰かの活力を奪おうとする邪な発想と、「とばっちり回避」のために不正義を許す弱さが原因となって起こるのです。
ですから、「黙殺」の暴力は決して許してはなりません。
◆「無記」と「黙殺」の違い
ただし、仏教に「無記」という智慧があります。
これは、相手の愚かな質問にあえて応接しないことで、相手にそれ以上の愚かさを犯させない行為であり、一見、黙殺に似ています。
たとえば、教えの実践を薦めているのに、マニアックな質問を百出させて、いっこうに堅実な努力をしようとしない者に対し、釈迦は「沈黙」で応えたのが「無記」の逸話です。
この「無記」と「黙殺」は一見似ていますが、前者が善導を動機としているのに対し、後者は悪意を動機としているところに根本的な違いがあります。
「無記」には愛があり、「黙殺」には愛がないのです。
ただし、乱暴者を諌めるため、正義の士が気合で相手を抑えこむ場合の「黙殺」は、悪なる定義から除外します。
この場合は、毒をもって毒を制すという高度な正義の現れであるからです。
ですから智慧でもってこれらを峻別し、陰湿ないじめにつながる「黙殺」には正義の鉄槌を振り下ろさなければなりません。
結論をもう一度言います。
「黙殺」が陰湿ないじめ化しようとしたとき、天使は断固として正義の鉄槌を下ろせ。
これが悪をおしとどめ、善を推し進めるための道です。
「黙殺」を許さず、人を生かして愛ある繁栄を創りましょう。